死ぬとき何を後悔するだろうか

ある大学で90歳以上まで生きた人たちへのアンケート調査が行われた。
「あなたの人生を振り返ってみて、後悔することは何ですか?」と。

彼らの答えは、その気なればやれたはずなのに、やらなかったことに対してだ、と。

90歳以上まで生きれば、苦しかったことや悲しかったこともたくさん経験しているに違いないが、それはそれとして横に置くことが出来るようだ。

どうせ苦しいことや悲しいことはいずれ忘れてしまう。
人間、いつまでも悔やんだり、悲しんだりしていることはできない。
それより、やれば出来ることをやらなかったことは死ぬまで後悔するらしい。
分かる気がする。

ところで、私がいま死ぬとしたら何を後悔するだろうか。
それは「フルマラソンでサブフォー(4時間を切って3時間台で走ること)を達成できなかったこと」だ。
「なぁ〜んだ、おまえの志はその程度のものだったのか。」
と思われるかも知れない。
……そう、“青雲の志”などとうの昔に置き忘れてきた自分にとってサブフォーは手に届きそうな目標だった。
しかし、度重なるケガで松葉杖生活を三回も経験し、その都度、体力が衰え(年を食うとケガは完治しないのだよ、トホホホ)。
いまでは65歳の高齢者となり、敬老パスをもらって喜んでいる老人となってしまった。
このままでは死んでも死に切れない。
いまさら後悔しても遅いが、もっと早くから走っておけばよかった。

内心、もうサブフォーは無理かも知れない、と諦めの気持ちも正直言って、ある。そのように目標を見失いかけている昨今、「あれ、俺って何のために走っているのだろう」と思う瞬間がある。
というのは毎日、歩いたり走ったりするのが生活の一部になってしまっており、今では歩行距離と走行距離を合わせて月間300kmを超える。
それでもまったく苦にならない。
それどころかいい汗をかいて、適度に疲れて自宅に帰り、晩酌をしながら、愛するカミさんと、おいしく食事を摂り、ぐっすり眠り、翌日しっかりウンコをすると「快眠・快便・快食」の毎日の生活がいかに幸せなことかと思う。
これ以上何も望むものはない。
私は足るを知る男だ。

いいタイムで走ることを目的にトレーニングしていたものが、いつの間にか毎日走ることそのものが楽しくなる、というのは目標を見失って掴んだ幸福感だ。
手段と目的を取り違えて手段を目的化する、というのは逆説的だが幸せのコツかもしれない。
私がサブフォーという目標を手放したら、何も後悔することなく、安らかに「あの世」に逝けると思う。