車を手放せ

私は今年の1月からマイカーに乗るのをやめた。
どこに行くにも電車とバスを乗り継ぐか、歩くことにしている。
名古屋市の「敬老パス」を利用するようになって公共交通機関で移動するのが面白くなったのがきっかけだ(最近、私は生まれて初めて名鉄バスに乗った)。
それにしても昼間の電車やバスの中はガラガラでとても新鮮だ。
書斎がわりに使える。
名古屋市の地下鉄・市バスはタダで乗り放題。
名鉄やJRはカードタッチ(私の場合はmanaca)で改札口を通るので、小銭もいらないし、いちいち乗車料金を確認しなくてよい。
どこへ行くにもスマホさえあれば乗換駅や経路、到着時刻などが分かる。
事前準備に時間がかからない。

煩わしさがなくなったので電車やバスの乗り継ぎが苦にならなくなった。
スマホとmanaca カードと敬老パスを持って事務所を飛び出すのだ。
荷物も手提げカバンをやめてバックパックにした。
両手が空いて快適だ。
これなら二宮金次郎みたいに本を読みながらでも移動できる(あはははは)
名古屋は公共交通機関が発達していないから、車を持っていなければ仕事にならな
いと思い込んでいたが、そうでもない。
車がなくても十分やっていける。

どうしても車が必要なときのために「カリテコ」というカーシェアリングの会
員となったが、まだ一度も使ったことがない。
考えてみれば車など必要ないということだ。
たまに交通の便の悪いところに行くとバスの待ち時間が1時間なんてこともあるが、それはそれで文庫本を読む時間に充てればよし、歩いてもよし。
私は1時間や2時間歩くのは平気だ。
マラソンのトレーニングのつもりで歩くので苦にならない。

今まで何気なく車で通り過ぎていた町が歩いてみると新発見がある。
思いのほか寂れた町が多いのが気になるが……。
公共交通機関で移動することが苦にならなくなったのもスマホアプリとカードが相
互利用できるようになったデジタル化のおかげだ。
デジタルはアナログの時間を作り出す。
人間、脳がデジタルだと病気になる。
できる限りアナログの時間を持たなければならない。
それには電車とバスを乗り継ぎ、歩くことが一番だ。
こうして移動していると頭がすっきりしてくるから不思議だ。
車に乗っている奴がバカに見える。

これからの大増税時代は格差貧困社会という1%の金持ちと99%の貧乏
人を生み出す。
あなたが1%の金持ちに入れると思っているなら大間違いだ。
誰も彼もが貧乏人になるのだ。
覚悟しておいた方がよい。
その時は健康だけが財産だ。
明日からの消費税率アップは弱者を直撃する。
半年もしないうちに不景気が世の中を覆うことになる。
来年10月に10%に税率を引き上げる予定なので、マスコミ(特に日経)は「消費増税の影響は軽微」などと書き立てて捏造報道を繰り返すだろうが騙されてはいけない。
日経を読むとバカになる。
インチキ・アベノミクスから身を守るには、節約しかないのだ。
節約のまず第一歩は金食い虫の車を手放すことだ。
節約を楽しんで健康になる。
これが不況を乗り切る切り札、ロハスだ。

親の影響

東京マラソンを走った後、東京に住んでいる私の息子(長男)を訪ねることになっていた。
自営業者となっている息子の確定申告を手伝ってやる約束だったのだ。
マラソンを走った後だったので電車の乗り継ぎで駅の構内の階段の昇り降りはきつかった。
脚がバッキバキに凝っているので手すりにしがみつきながらの階段だった。
まるで老人だ。
東京に住んでいる息子は車を持っていないので「疲れているから車で迎えに来い」とは言えないし、タクシーに乗るのはもったいない。

息子の確定申告の手伝いのことだが、領収書などの保存が苦手みたいだ。
儲かっているのか、いないのかさえ、さっぱり分からないらしい。
ま、食っているので何とかなっているのだろう、と気楽に確定申告の手伝いは終わった。
息子は私に似て数字が苦手だ。
税理士である私も息子の確定申告に関心がない。
「税金のことは気にせず、仕事に集中しろ」と言っておいた。

私の息子は会社から独立して東京で自営業者として開業したが、のんきな性格なので果たして食っていけるのかと心配するのが親心。
と思うだろ。
が、正直なところ私は心配したことはない。
私は息子が小さい頃から「群れるな、はぐれ鳥になれ」と言い続けてきたから、
いまこうして「はぐれ鳥」になっている息子に「よくやった」と言ってやりたい。食っていけるかどうかは関係ない。
そんなことより大事なことは体力と気力だ。
体力と気力さえあれば何とでもなる。
健康に気をつけて元気でいて欲しい。
ただそれだけだ。
そのためには歩くか走ることを日常の生活習慣にすることだ。

しかし、息子の仕事は一日中、パソコンの前に座ってやる仕事なので健康が保てるかが心配だった。
だから3年前、「運動不足だろ、おまえも走れ」とモンゴルマラソンに誘い出し、一緒にモンゴルの草原を走ったことがある。
マラソンにハマって毎日少しずつでも走るようになればいいが、との思いで勧めたのだ。
それ以来、走っている様子がないのでマラソンにはハマらなかったな。
と思っていた。ところが意外にも息子からマラソンの話をしてくる。
自分もマラソン大会のエントリーをしたというのだ。
「やっと走る気になってくれたか」と嬉しかった。

強制することなく自分からハマっていくように仕向けたのは、マラソン以外にはパソコンのMacだ。
私がMacにハマったとき、当時2歳の息子にも使わせたら、息子は完璧にMacに
ハマった。
それが嵩じて美大に行き、今ではデザインの仕事で張り切っている。
Macといい、はぐれ鳥といい、マラソンといい、私はいいものを息子にハメてやった。

しかし、もう一人の息子(次男)は「自分の趣味を押し付けないでくれよな」などとぬかして言うことを聞かない。
それでもしっかり“はぐれ鳥”にはなっている。

東京マラソン

骨盤骨折したのが1年2ヶ月前だった。
一時は寝たきりになるかも知れないと思ったが順調に回復し、その間ハーフマラソンを2回走った。
これでフルマラソンを完走すれば完全復活だ。
それも完走というだけでなく、念願のサブフォーを狙おうと出走したのが先月23日の東京マラソンだった。
結果は完走はしたがサブフォーには遠く及ばない、ほろ苦い結果となった。

ネットタイムでは4時間台ギリギリ。
ゴールでは精も魂も尽き果てた。
タイムの悪いときほど疲れる。
予想通り、大混雑している後方からのスタートだったので序盤の5kmは37分という超スローペースとなった。
練習でもこんなに遅く走ることはない。
しかも緩やかな下り坂が続いているのでとても楽チンだった。
20kmを過ぎても全然疲れを感じない。
これならフルマラソンといわず、100kmのウルトラマラソンでも走れるのではないか、とさえ思ったほどだ。

東京マラソンの沿道の応援は熱烈だ。
こんなレースで走ることができる幸せを感じながら観光気分になって走っていた。
私の隣を走っていたのが十字架を担いだキリストだった。
青白い病人のような顔をして、パンツ一丁でしかも裸足で大きな十字架を背負って走っているランナーだ。
キリストには沿道からの声援も凄かった。

ネクタイを締めて背広を着て走るランナーもいた(さすがに靴はマラソン用だったが)。
そういうランナーを携帯カメラで撮ったりしながら、同じペースで走って
いたのだ。
う~む、こんなことをしている場合ではない。
もっとペースを上げねば……。

そうこうしているうちに30km地点に来た。
あわわわ、ずいぶん遅れてもうた。
サブフォー絶望や、それどころか、下手をすれば5時間台になってしまうやないか。
焦った。
最悪、完走さえ出来れば、という気持ちで臨んだけれど、それにしても5時間台はあり得へん。
これでは末代までの恥だとさえ思った。
遅きに失したがペースを上げようと思った。
が、しかし……。足が動かへん。
心肺機能は全く問題ない。
息も上がっていないし余力はあるように感じていたが、脳と足がバラバラだ。
足が棒のようになるとはこのことか。
筋肉に乳酸がたまり、固くなっているのか。
ちょっとした段差や小石につまづいて転びそうになる。
40km過ぎた頃には、なんでこんな結果になったのだろう、という落ち込んだ気
分になってしまった。
真央ちゃんがソチ五輪でショートプログラムを終えた時の心境もかくのごとくか?
このままでは終われん。
もう一回挑戦せなあかんやろ。
と思いながらゴールしたことであるよ。

働かなくても食ってよし

消費税という税は逆進性という致命的欠陥を持っている。
所得の低い人たちや年金生活者にとって消費税の増税は生活を直撃する。
それでも国民の半数以上が消費税増税やむなしとの意見だったのは、その増税分が社会保障の充実に充てられると思い込まされたからだ。

ところがどっこい、「消費税増税という痛みを分かち合うのだから、その前に社会保障費を削減すべきだ」という方向に話がすり替えられている。
いったい、どないなっとんねん!

これではますます老後の生活が不安になり、萎縮して金を使わなくなる。
なんのことはないデフレからの脱出はできないことになるわけだ。
片方でインフレ目標を掲げておきながら、やっておることがちぐはぐだ。
いったい、なにさらしてけつかんねん!(これって河内弁?)

数年前、民主党政権のとき消費税増税にあわせて「給付付き税額控除」という制度が提唱された。
低所得者に現金を給付する「マイナスの所得税」のことだ。
今では「給付付き税額控除」が話題になることもなくなったが、それにかわり「ベーシックインカム」という考え方が注目されるようになって来た。

「ベーシックインカム」とは、赤ん坊から年寄りまで生きている限り、貧乏人にも金持ちにも一律、無条件に国が一人一人に最低生活費として現金をばらまく考え方だ。
その金は自由に使ってよい金だ。
パチンコで散財しようが、酒を飲んだくれようが誰からも文句を言われる筋合いはない。
生活保護費のように恥を忍んで貰いに行くこともない。
一律にばらまくのだから役人が介入する余地もない。
「世の中、怠け者だらけになるじゃないか」と怒り出す人もいるだろう。
しかし、食うために魂を売り渡して嫌な仕事に就いていることはない。

失業の恐怖から我慢に我慢を重ねて疲れ果て、いったい何のための人生だったのかという者もいるのだ。
「働かざるもの食うべからず」という圧迫から人類が初めて解放される。
「食うために働く」から「働くために食う」への転換だ。

例えば1人月額8万円(夫婦、子供2人なら月32万円)とすると122兆円必要になるが、生活保護費や年金を支払う必要がなくなるので差し引き58兆円ほど国民負担が増える。
国民負担率では39%から57%程度になる(ドイツ、フランス並みの負担率だ)。
決して夢物語の数字ではない。
毎月1人8万円貰ったら君ならどうする?
それでも働きたいだろ?
働かなくてもよいと言われれば、逆に仕事をしたくてうずうずしてくるはずだ。
それも意義ある仕事を。

ビルドアップ走

「あわわわわ。もう一ヶ月切っちまったよ。どないしょ」
東京マラソンの通知が届いたのだ。
ナンバーカード引換証などと一緒に、開催日が近づいてきたけれど準備はよいか、という案内の通知だ。
東京マラソンの抽選結果の発表は昨年だった。
「まだ6ヶ月以上もある。たっぷりトレーニングをしてサブ4を狙ってこましたろ」と思っていたのだ。
……が、しかし、油断をしてしまった。

昨年は真面目にトレーニングをしたつもりだったが、今年の正月からサボりぐせが
ついてしまった。
私は暑いのも苦手だが寒いのも苦手だ。
早朝に走ることにしている私にとって、冬の早朝は寒くて走る気がしない。
特に冬は以前ケガをした古傷がうずき、それをかばって走っているうち体のバランスが狂い、疲れて走れなくなる。
てなわけで疲れたら無理せず休養。
「休養も練習のうち」と気休めの言葉で自分をごまかし、ゆるゆるになっていた。

だから今は試験が近づいて、勉強不足を後悔している受験生のような気分なのだ。
年を食うと下りのエスカレターに乗っているようなもの、ちょっと油断すると、あっという間に体力は低下する。
練習しても現状維持が精一杯だ。
一昨年はケガが続き、ここ2年ほどはフルマラソンを走ったことがない。
10kmやハーフマラソンなら今でも完走する自信はあるが、フルマラソンとなると「生きて帰って来れるかしらん」と緊張する。
マラソンの練習を始めた頃、佐々木 功著「ゆっくり走れば速くなる」という本に
感銘を受けた。
「ゆっくり走り、また明日も走りたいなぁ、というところでやめておくのがコツ」と書いてあった。
それもそうだと思い、チンタラ走っていたのだが、やっぱり、これではタイムは伸びない。
マラソンを舐めとったらあかん、ちゅうこっちゃ。
かと言ってスピード練習はきついのでやる気が起きない。
てなわけでいつまで経ってもタイムは平凡なままだ。
マラソンを始めたからには、せめてサブ4でも狙ってみたいものだと思い、ゆっく
り走るだけではあかん。少しはきつい練習もせなあかん、と思い。
ビルドアップ走という練習をたまにやることにした(10回に1回ぐらいの割だけどね)

ビルドアップ走という練習方法は徐々にスピードを上げていき、最後は目一杯のス
ピードで走りきる練習だ。
きついからあまりやらないけど走り終わった後は爽快な気分になれる。
残りの人生もビルドアップ走で、いてこましたろかしら(これ河内弁?)
しっかり走りきって爽快な気分であの世に行くのも悪くない、と思う今日この頃。
それなら年中無休でヘトヘトになって死ぬつもりか、だって?
それはない。

「いま、この瞬間」に生きる

先月、お伝えした骨盤骨折のことだが、その後、CTスキャンで精密検査を受けることになった。
その結果、医者から「お〜、しっかり折れとる。完全無欠の骨盤骨折。東京マラソンは無理だな。全治三か月!」というご宣託を受けた。
言われるまでもなく東京マラソンの出場は諦めている。
「いくら何でもこりゃ無理だわな」と自分で分かる。

ケガからちょうど一ヶ月。
まだ松葉杖なしでは歩けない。
数メートル移動するにも激痛に耐えなければならない。

私は空腹や貧乏には耐性ができているが、痛みにはからっきし弱いのだ。
歯の治療でも全身麻酔でやってもらいたいくらい痛みには弱い。
もし私がスパイで敵国に捕まったとしたら、拷問にあう前にペラペラと秘密を白状してしまうことだろう。

松葉杖で歩いていても、トイレに行くときも、風呂に入るときも、今度転んだら寝たきり生活になりかねないから、もう転べない。
「ゆっくり、丁寧に、そしてはっきりした気持ちで」行動するしかない。
「ゆっくり、丁寧に、はっきりと」と、まるで呪文のように、こころに刻みながら過ごした。

そうこうしているうちに、これは図らずも禅の修行と同じだ、と気づいたのだ。
日常生活のすべての場面で「いま、この瞬間」に意識を集中させる。
「ん?。ひょっとすると、これが禅でいう“常住坐臥”とか“前後裁断”ということか」

済んでしまったこと、将来のことをくよくよ考えず、今この瞬間を精一杯生きる。過去や未来はイリュージョン。
「いま、この瞬間」だけが悟りに繋がる入口。

そのせいか、ここ一ヶ月ほどは、体は不自由だが心は平穏で、安定している。
明鏡止水の心境だ。
「う〜む、この感覚か。コツが分かってきたぞ」こうなると不思議なことに痛みに耐えるというより、痛みを味わっているので苦痛を感じない。
よお〜し!悟りは近い。
ワクワクする。仙人までもう一息だ。

「過去」や「未来」は存在しない。
存在しているように、お互いに催眠術をかけあっているのだ。
「いま、この瞬間」だけが真実。
簡単なことだったのだ。

ん?……。
ってことは諸君!
確定申告も必要ないということだ。
いまさら昨年の売上や経費を集計してもしようがない。
もう済んでしまったことだ。忘れろ。

相続税対策もなおさら必要ない。
いつ死ぬか分からない将来のことを心配しても仕方がない。
その時が来たら、もうあなたは死んでおるのだ。

う〜む、仙人になると税理士なんかやっとれんなあ〜。

週休三日やめました

考えるところがあり、この正月をきっかけに今年から心機一転、10年間続けた週休三日をやめて、土・日・祝日休みの世間並みの普通の勤務体制にすることにしました。
来年から相続税の基礎控除が引下げられます。
相続税の申告件数も多くなり、忙しくなりそうなので、それに対応するための準備でもあります。
それより何より、今年は政治や経済状況が予断を許さない深刻な状況になると思ったからです。
のんきに週休三日などやっている場合ではないと思ったのです。

断食やマラソンのおかげで体調はすこぶる快調なので、健康で元気に働けるうちは頑張ろうという気分になりました。
私の同世代の者たちは定年退職となって、自宅で引きこもり状態の仲間もいます。
それを考えれば死ぬまで働ける仕事についていることが如何に幸せなことかと感謝しています。
ですから元気なうちは、働いて世間のお役に立たんとあかんやろ、という殊勝な気分になったのです。

今まで、皆さんが働いている金曜日でも電話が繋がらないなど、ご迷惑をおかけしていましたが、今後は金曜日でも対応できることになりますので、よろしくお願いします。

今まで何度も書いてきたとおり、私の血筋は皆、短命で、私も40歳代で死ぬと思い込んでいたので、自分が年寄りになるなど想像もしていませんでした。
運がよくても60歳までにはくたばるだろう、と思っていたのです。

しかし、ここまで生きてきて、いまだにどこといって悪いところもなく、俺はいったいいつまで生きるのだろうと不安にさえなる今日この頃。
長生きのリスクはカミさんに先立たれることです。
これこそが最大のリスクです。
これだけは絶対にご免こうむりたい。
「俺より一日でも長く生きてくれ」ということが切実な願いです。
長生きもいい加減にせんといけません。

私にはもともと「野垂れ死に」願望があって、死んだらそれでおしまい。
後は野となれ山となれ。
という考えの持ち主だったのです。
ですから今まで、遺言書を書く人の心情というものを理解できませんでした。
しかし、私は今年初めて自分が死んだ後のことを気にするようになりました。
自分が死んだ後のカミさんのこと、子供たちのこと、事務所の職員さんのこと。
お客様のこと等々、考える良い機会となりました。
めでたくもあり、めでたくもなし。

税務に精通するには

私はときどき宅建協会など税務セミナーの講師を務めるさせていただくことがある。
不動産については税金のことが分かっていないと仕事にならない、ということで、皆さん熱心に聞いてくださるのだが、正直言って何度聞いても税金のことは分からないのではないかと思う。
税法は「一読して難解、二読して誤解、三読して不可解」とよく言われる。
読めば読むほど分からない。
エラソーに講師として話をしている私も分かっていないことがある。

言っておくが、税金のことは税法を読んだら絶対に分からない(私が読んでもチンプンカンプンなのだ)。
かといって、インターネットからゴミのような情報を得ても、もっと混乱する。
参考書を読んでも他のセミナーに参加しても分からない。

どうしたら分かるか。
それは税務申告書を実際に書いてみることだ。
それも手書きで……。
これが税金のことを理解する早道である。
体にしみ込むように分かるようになる。
それより、もっと早道なのは税務調査に立ち会うことだ。
税務調査に立ち会って、調査官と丁々発止やりあうことだ。

しかし、申告書を書くことも税務調査に立ち会うことも税理士の資格がなければやることはできない。
それどころか税務相談ですら、有償であれ無償であれ、資格がなければしてはいけないのだ。
ってことは税理士以外では税務に精通することは永遠に不可能ってことなのだ。
国が税理士の職域を保証してくれとるわけだ。これでワシらはぬくぬくと暮らしていけるのだ(むはははは)。

しかし、ぬくぬくと暮らしている税理士はいない。
それどころか、コロコロ変わる税制に翻弄され、ついていくのが精一杯だ。日々勉強していないと通用しないのが税理士だ。
てなわけで来年もまた勉強して税制改正セミナーをやります。
詳細は後日連絡します。

税務調査が激減している

国税庁のまとめによると平成24事務年度(平成24年7月〜平成25年6月)に実施した税務調査は法人税と所得税で約3割弱、相続税調査も1割減ったらしい。

これは国税通則法の改正により今年1月から税務調査の手続きが大幅に見直され、調査官たちが対応に追われていることが原因だ。

まず、調査の事前通知だ。
納税者と税理士に調査の開始日時、場所、目的、対象税目、対象期間等々11項目を通知することになったのだ。
税務署の調査官から税務調査の事前通知の電話が入ると、この11項目を延々と話し始めるのだ。
「分かった、もういいよ」と途中でさえぎると、税務署員が申し訳なさそうに「お願いですから最後まで聞いてください」と。

中身は今までとほとんど変わりがない。
11項目を全部聞いても仕方がないのだ。
忙しいときに延々と聞かされる身にもなってみろ!
営業妨害とさえ思えることがある。
これと同じことを納税者にも通知をしているわけだ。
いきなり税務署から電話が入って事前通知を機械的に話されても、納税者にとっては、チンプンカンプンだろうがおかまいなしだ。
こういうのをコンプライアンス馬鹿というのだ。
最近こういう誰も喜ばない管理と自己保身のための仕事ばかりが増えている。

そして調査が一通り済んで問題点の検討に入り、修正申告に応じなければ、更正処分ということになるのだが、この更正処分を行う場合は、税務署は「理由付記」をしなければならなくなった。

うちの事務所では、今年は相続税の調査で一度、修正申告の勧奨を拒否した。
更正処分するならその理由を示せ。
ということでどんな「理由付記」をしてくるのか楽しみに待っていた。

が、いつまでたっても更正処分して来ない。
やっとのことで出てきた「理由付記」の内容の杜撰なこと。
今まで調査官はまともに理由付記を記載したことがないのだ。
日本の納税者があまりにもおとなしいので、処分の理由が分からなくても、文句も言わず追徴に応じていたからだ。

税務調査が停滞している原因にこの「理由付記」をしなければならなくなったことが大きい。

今回、うちの事務所では、更正処分に対して「理由付記」の不備を理由に不服申立しようと思っている。

ま、こういうこともあったけれど、他の今年の相続税の税務調査は手続き以外の臨宅調査(納税者の自宅での実地調査)はあっさりしていた。
印象に残る税務調査がないのだ。
調査はみな午前中で、あっけないほど簡単に終わってしまった。
調査官が「先生には、申告に際してよく検討されて提出していただいておりますので、税務調査はこれで区切りとします」と言って帰って行くと、お客さんは大喜び。
まるでうちの事務所の営業をしてくれているのかとさえ思ってしまう。
こういう性善説にたった調査をすれば、今までより格段に税務調査の件数を上げていくことができる。

税務署の諸君!
納税者を疑ってかかるから能率が悪いのだ。
納税者を信用してサッサと調査をしてサッサと帰る。
税務調査の件数が激減したことへの対策はこれに尽きる。
性悪説から性善説に立った税務調査への転換だ。
人を疑っていてはキリがない。
猜疑心は諸悪の根源だ。

死ぬとき何を後悔するだろうか

ある大学で90歳以上まで生きた人たちへのアンケート調査が行われた。
「あなたの人生を振り返ってみて、後悔することは何ですか?」と。

彼らの答えは、その気なればやれたはずなのに、やらなかったことに対してだ、と。

90歳以上まで生きれば、苦しかったことや悲しかったこともたくさん経験しているに違いないが、それはそれとして横に置くことが出来るようだ。

どうせ苦しいことや悲しいことはいずれ忘れてしまう。
人間、いつまでも悔やんだり、悲しんだりしていることはできない。
それより、やれば出来ることをやらなかったことは死ぬまで後悔するらしい。
分かる気がする。

ところで、私がいま死ぬとしたら何を後悔するだろうか。
それは「フルマラソンでサブフォー(4時間を切って3時間台で走ること)を達成できなかったこと」だ。
「なぁ〜んだ、おまえの志はその程度のものだったのか。」
と思われるかも知れない。
……そう、“青雲の志”などとうの昔に置き忘れてきた自分にとってサブフォーは手に届きそうな目標だった。
しかし、度重なるケガで松葉杖生活を三回も経験し、その都度、体力が衰え(年を食うとケガは完治しないのだよ、トホホホ)。
いまでは65歳の高齢者となり、敬老パスをもらって喜んでいる老人となってしまった。
このままでは死んでも死に切れない。
いまさら後悔しても遅いが、もっと早くから走っておけばよかった。

内心、もうサブフォーは無理かも知れない、と諦めの気持ちも正直言って、ある。そのように目標を見失いかけている昨今、「あれ、俺って何のために走っているのだろう」と思う瞬間がある。
というのは毎日、歩いたり走ったりするのが生活の一部になってしまっており、今では歩行距離と走行距離を合わせて月間300kmを超える。
それでもまったく苦にならない。
それどころかいい汗をかいて、適度に疲れて自宅に帰り、晩酌をしながら、愛するカミさんと、おいしく食事を摂り、ぐっすり眠り、翌日しっかりウンコをすると「快眠・快便・快食」の毎日の生活がいかに幸せなことかと思う。
これ以上何も望むものはない。
私は足るを知る男だ。

いいタイムで走ることを目的にトレーニングしていたものが、いつの間にか毎日走ることそのものが楽しくなる、というのは目標を見失って掴んだ幸福感だ。
手段と目的を取り違えて手段を目的化する、というのは逆説的だが幸せのコツかもしれない。
私がサブフォーという目標を手放したら、何も後悔することなく、安らかに「あの世」に逝けると思う。